胡波のつぶやき

それってこういうことかな、だったらこうしたらどうなる。

75年前の悲劇

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 広島の平和公園に入る橋を渡ったすぐ左に、広島市立第一高等女学校原爆慰霊碑がある。ここで高校一年生二年生と先生の全員が亡くなった。

真ん中の少女が、E=MC² と書いた箱を持っているが、そしてそれはアインシュタインの相対論の式ではあるが、なぜここにこの数式が書いてあるのか不思議に思っていた。この碑が彫られたころはまだ、GHQの言語統制があって、原爆という言葉は絶対に使ってはいけなかったし、これを慰霊碑と言うこともできなかったが、彫刻家の河内山賢佑氏は何とか、この子たちがなぜ亡くなったか、後世に残したかったのだった。

他の高校や中学校の子供たちも、建物疎開の作業中亡くなった。疎開と言っても移築ではなく、空き地を作るため軍が建物を壊し、子供たちが片付ける。日本中の大きな町が焼夷弾で丸焼けになっていたので、そうならないように延焼を防ぐために建物を間引いていた。

しかし、全滅した。一瞬にして地獄と化した。

 

1930年代には世界各国の科学者は、ウランを使えばすごい爆弾が作れることは理論的にはわかっていた。ドイツはすでに作っているのではないかという懸念から、レオシラードとアインシュタインは、ルーズベルト大統領に、アメリカも作った方がいいという手紙を送った。

ルーズベルトは、イギリスからの勧めもあり、1941年にマンハッタン計画を始めた。1945年に、原爆3発を作り、1発目は自国で実験し、あとの2発を日本に落とした。

 

日本軍は、テニアン島(サイパンの隣)でB29の少数部隊が異様な動きをしているのはわかっていた。8月6日の午前7時すぎ、B29が飛んできたので空襲警報が発令されたが、すぐによそへ飛んで行ったので解除された、みんなが外に出て作業を始めたころ、B29は舞い戻ってきて原爆を落とした。8時15分に落とされたということになっている。それは、みんなの言うことが少しずつ違うので、広島市役所の人が追悼式をするために、8時15分に落ちたことにしたらしい。実際には何時何分に落ちたのか、中条一雄というジャーナリストは20年くらいかけて調べたが、結局わからなかった。

 

そのインタビューの中で、わたしが気になったのは竹村純一(仮名)さん、「友人と8時に紙屋町で待ち合わせしていたのに、広島駅で他の友人とばったり会って話し込んでしまったので遅れて、8時5分か6分に市内電車に乗った所でピカっときた。友人は僕を待っていて原爆の直撃をうけた、僕が殺したようなものだ。僕は遅刻したので生き残った、そんなことは誰にも言えない。悪いのはアメリカのヤツらだ。僕は絶対に復讐してやる。」

竹村さんの憎しみは当然だと思う、しかしその憎しみを一人で抱えて生きるのは、つらかろうと思う。その時ちょっと遅刻したくらいで、一生同じ被爆者と語り合えないのは、孤独だと思う。

 

わたしが今まで、実際に被爆された人や、その家族の方から話を聞いたり、手記を読んだり映像を見たりした限りでは、百人が百人、アメリカを恨んだりしていない、悪いのは戦争だ、と言われる。2016年にオバマ大統領が広島に来た時、みんな大喜びだった。人間は、あんっまりにも酷い被害に遭うと、それに見合うだけの恨みや憎しみを心の中に秘めていたのでは、生きていけないんだろうと思っている。

 

わたし自身はアメリカを許していない。アメリカは全く反省していない。日本は謝罪を求めるべきだと思う。オバマさんの演説も、あの晴れた夏の日に天から死が降ってきたという所でカチンときている。お天道様は死を降らせない、あなたがたアメリカでしょう、と思う。しかし、日本とアメリカの国旗を振って喜んでいる人の隣で、それは言えない、彼らは世界で一番ひどい目にあったのを乗り越えて生きているから。

 

あの時オバマさんと抱き合った森重明さんは、核軍縮ではダメなんです核廃絶でないとダメなんです、と言う。それにはまずアメリカに反省していただかないと。

 

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参考文献 「原爆投下 黙殺された極秘情報」松本秀文・夜久恭祐 著

     「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」中条一雄 著