胡波のつぶやき

それってこういうことかな、だったらこうしたらどうなる。

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これは、広島県竹原市忠海大久野島にある旧陸軍の毒ガスの貯蔵庫跡。

小さい島だけど、たぶん日本で一番多くこの島で毒ガスが作られていた。

昭和4年から19年の間に、6600トン。

島には宅地も畑もなく、今は国民休暇村の小さいホテルがある。

 

野生のウサギが多く、観光客にエサをねだる。

ここのウサギはお行儀が良くて、どこかの公園の鹿のように、人が持っている食物を瞬時に奪ったり、勝手にトイレに入ってきたりしない。

斜め前方からトコトコっと走ってきて、わたしの足元20㎝のところにスッと立ち「キャベツの葉っぱ1枚ちょうだい」という目をする。どこ子もそうする。

おなか一杯になったら、木陰で猫のように長くなって昼寝をしている。

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島を左回りに遊歩道を歩き、ウサギと遊んで疲れたので休暇村のバスで桟橋に戻った。

バスの中から毒ガス資料館が見えた、でも途中下車はできない、歩いて引き返す元気がなかったので船に乗って帰った。

あれ、わたし今日の目的のメインはあそこだったのに、なんで帰ってるんだろう。

ずっと前から毒ガスのことを知りたくて、いつか大久野島に行こうと思っていて、背中を押してくれたのが、ヤフーニュースで、新型コロナの影響で観光客が減り、エサをもらえなくてウサギの数が減っていると言うので、キャベツを買って島に向かった。

行ってみたら観光客はとても多くて、港で並んでいたら「はい、ここから後ろの人は次の船に乗ってください」と言われるし、島にはウサギが何百匹もいた。

 

 なんか二重三重に仕組まれていて、完全に操作されたようだ。

ウサギの世話は、休暇村に雇われていると思われる人が、島の遊歩道わきにたくさん置いてある水の容器を一つ一つきれいに洗って水を入れ替えて回っているのを見たし、芝生には大量のペレットが撒いてある。港でもペレットは売っているが、お金を出して買ったエサをそのまま地面に撒く観光客がいるだろうか。そしてウサギは、ごはんがあるところに集まっていて、立入禁止区域には一匹もいない。

そして毒ガス資料館を素通りするバスは、誰でも無料で乗ることができる。

 

ウサギは、坑道のカナリアと同じで、この島にはもう毒ガスはありませんよという証として、こんなに弱くてかわいい、しかも地面で暮らす動物が元気なんだから、人間に害はないということか。

実際、戦争中の毒ガス工場で、ガスを吸ってしまって亡くなった工員が出たので、各セクションでジュウシマツを飼っていた。

 

休暇村は、昭和33年にできた。当時の内閣総理大臣だった池田勇人竹原市出身で、竹原というと毒ガスを作っていた島があるというイメージを払拭するために休暇村を作ったとしたら、休暇村はいまだに池田さんに忖度しているのか。

 

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休暇村の電気は、対岸に火力発電所があるので、直接電線を掛けている。しかし水道は来ていない。井戸を掘っても毒が出るし。海中に水道管を通すのは危険すぎる。終戦のころ、大量の毒ガス入りドラム缶を海に捨てたので、海中では工事ができない。水は船で運んでいる。なのに休暇村には温泉もあるしプールもある、贅沢なことだ。

 

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大久野島には、こういう大量のドラム缶は今はない。でも時々少しずつ見つかる。平成9年から11年に3回も土中から当時埋めたと思われる化学兵器が見つかって、そのたびに環境省が調査して、高濃度のヒ素などが検出されたところはロープを張り、立入禁止と書いている。

 

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当時、女学生の学徒動員で大久野島風船爆弾の気球部分を作らされていた岡田藜子さんは、風まかせで目的地にたどり着くのかしらと思いながら作っていたが、戦後の情報で、風船爆弾が本当にアメリカに飛んで行き、アメリカ人が何人か亡くなったということを知り、あの時に島であったことを若い人に伝えなければならないと思い、記憶をもとに数十枚の絵を描いて画集を自費出版した。

平和学習などで、絵を見せながら子供たちに話す。

海外に出かける人に託すなどし、毒ガスの被害者や風船爆弾の犠牲者遺族をつきとめ、詫び状を添えて画集を送っている。

 

また、藤本安馬さんも十代後半、大久野島で働き、当時は知らなかったが、私たちが作っていたのは国際法で禁止された毒ガスで、自分は知らなかったとしても犯罪者で加害者だから、謝らなければいけないと思ったそうで、何回も中国に謝りに行っている。

 

そして一番の問題は毒ガスの、人間と自然に及ぼす害。

第二次世界大戦で毒ガスは使われたし、終戦の時に、日本軍は中国の川や土の中に毒ガス兵器を捨てた。過去も現在も未来も、中国の人たちは日本の毒ガスの被害にあう。

 

昭和時代、大久野島で毒ガス生産に従事した人で健康な人はいない。

そのころ島の医務室で看護師として働いていた女性はある日、新入工員が手袋を忘れたと言うので貸してあげた。返してくれた手袋をズボンのポケットに入れたところ、太ももと陰部がただれて歩けなくなった。毒が浸透して骨まで見えていた。

 

工員さんはたいてい、気管支炎・肺病・皮膚炎・ガンのほとんど全部を患い、毒に触れなくなって何年たっても、症状は治まるどころか悪くなる人が多い。。働けなくて、経済的・精神的・肉体的苦痛は生涯つづく。国民健康保険もまだないころ、国は日本で毒ガスなど作っていない事になっているので、被害者の救済ができなかった。

 

昭和27年、三十才の男性が呼吸困難で広大病院に入院し、まもなく肺がんで亡くなった。男性の職歴から毒ガス被害であることがわかり、その年から広大病院で毎年、旧従業員に対する健康診断をおこなっている。

 

毒ガス被害二世の人たちの調査も、広大病院で700人を対象におこなった。結果は、影響がないとは言えないが、原爆被害者二世と比べると影響は少ないということらしい。

でもそれは調べるのが遅かったのだと思う。

原爆の場合は、昭和20年8月5日以前には被害はなかったし、その年から現在に至るまで、何十万人もの被爆者とその二世の健康について調査している。

大久野島では、昭和4年から被害はあったと思われるし、誰が被害に遭ったのか未だに全容が明らかになっていないうえに、調査の時にはすでに亡くなっていた子どもたちもいる。

忠海町で戦後一組の夫婦が三人の子をもうけた。でも上の二人は体が弱く幼くして亡くなった。三番目の子だけが元気に育った。広大病院が調査した700人の中に、三番目の子は入っているかもしれないが、上の二人は忘れられているのではないか。悲しい思いをしているのは両親と弟。

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 参考文献 「毒ガスの島」 樋口健二 著

     「一人ひとりの大久野島」 行武正刀 著

     ホームページ「大久野島から平和と環境を考える会」