交通戦争
車を持っている人は、自分の家から車に乗って、どこかに行く。
街中では、市内の全部の道路が駐車禁止になっているので、目的地に駐車場がない場合には、車を持つ意味がない。車が走るための道路はあるのに、車を停める駐車場がないのはおかしな話だが、それでも車はたくさん走っているのは不思議な話だ。
田舎はその点、目的地に駐車場がなくて困ることがないから、家族の中の大人の数と同じ台数の車がある家が多い。
運転免許を持っている人は、死ぬまで車に乗りたかったり、乗るしかないと思っている人が多い。
年を取って、足が立たなくなったり、ハンドルを持つ握力がなくなったりしたら、誰でも諦めるが、認知症では諦めない。認知症の人の 99%は自分は認知症ではないと思っているから。
そして悲惨な事故は、後を絶たない。
日本では、18才から車の免許を持てるが、何才までという法律がない。それがまずいと思う。法律を作る人が老人だから、老人に甘い。80才でも90才でも車の運転が問題なくできる人はいるが、10才でも車の運転が問題なくできる人もいる。それを、17才以下はダメと言うのなら、何才以上はダメだとしないと不公平で、しかもその年齢の中でも運転するのが難しいと複数の人が判断したら免許取り消しとする必要がある。
もともと道路は人が歩くために作られていたのに、いつのまにか車が走るために作られるようになった。
車は、誰が運転しても事故の危険があるので、車が走る道路は全部、地下に作ってもらいたい。
どこの家にも、どこのお店にもエレベーターがあって、地下に降りると、車の停車スペースで車に乗ったり降りたりすることができる。停車スペースから駐車場への移動は、人が運転するのではなくて、ボタンを押せば機械がやってくれる。
動いている車と、人が接触することは絶対にない。
道路はすべて一方通行で立体交差。車を走らせながら景色を見ることはできない、景色が見たい時は停車スペースで車を降りて、エレベーターで地上に出れば見ることができる。
そうなると、車は車でなくてもいいのかもしれない。馬車がなくなったように、車もなくなり、未来の地下道には新しい乗り物が走るのかもしれない。
未来の地下道とか、すごくお金がかかるけど誰が支払うか、それは国です。
地上の私たちの道路を車でいっぱいにして、本当に多くの犠牲者が今でも増えているのですから、国は責任を取って、これからは交通事故の犠牲者が一人も出ない社会を作ってもらいたいです。
参考文献 「臨床医のための!高齢者と認知症の自動車運転」上村直人・池田学 編著