胡波のつぶやき

それってこういうことかな、だったらこうしたらどうなる。

わたしたちの着ているもの

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わたしたちが毎日着ている服は、新しいものを買おうと思ったら、いつでもお店に行けば買うことができる。それが普通で、子供のころ母が服を作ってくれたのは、わたしの母は洋裁が趣味だったからだと思っていた。家族全員の服を母が作っていた。父の背広だけは一張羅だと言って背広屋さんで買っていたが、わたしたちが学校に着ていくセーラー服も、母のスーツも祖母のワンピースも、下着以外は全部このミシンで作ってくれた。

でも、考えてみると昭和30年代までは、衣料品を売っている店が、家からバスで行ける所に無かった。どこの家でも主婦が家族全員の服を作っていたのだった。

日本人が、まだ常に和服を着ていた時代には、主婦が家族全員の着物を、手縫いで作っていた。

昭和15年に国民服令という法律ができて、国が「これからは、こういう服を買って着ましょう」と言って兵隊さんのような服を普段着として着るように推奨したのだけど、あまり浸透しなかったらしい。民俗学者柳田國男曰く、

「中古以来の習わしとして、晴れ着は町で買い揃え、毎日の入用には家で造ったものを、着ることにしていた事実も考えてみなければならぬ。それが一朝にして全部工場の供給に移り、衣類は洗濯と僅かなつくろいを除いて、すべて女性の管轄を離れ、亭主の財布の問題となってしまったのである。」

天国の柳田さん、80年後の今、女性はつくろい物もせず、洗濯は指一本でできるようになりましたよ。

 

 

戦後、新しい時代に着る服を作りたいと誰もが思い、洋裁学校が流行った。全国に

  1948年     689校

  1949年 2281校

  1950年 3025校

  1951年 3771校

  1952年 6748校

20代女性の40%が洋裁を習った。たぶん、わたしの母も習っただろう。

上皇后美智子様も習っただろう、洋裁学校で習ったかどうかはわからないが、浩宮様のベビー服はかなりクオリティーが高い。

 

洋裁学校の生徒たちは和裁はできるので、製図とか裁断よりも縫いたい、そして着たい、あわよくば洋裁で生計を立てたい人が多かったのだが、そんなに簡単じゃなかった。

その先生方の一人、桑澤洋子という人に、わたしは興味を持っている。洋服だけではなくて生活全般をデザインする人で、デザインの先生なのだけど、これからの女性が、裁縫などの家事に時間を費やすのではなく、自由に生きていくことができるように、日本の服飾業界を既製服がメインになるように牽引した。そのおかげで、今はだれもが簡単に服を買えて、それが着やすく洗濯しても長持ちして美しく、その人らしい服を選べるようになった。

f:id:sassakonami:20200425222603j:plain 桑澤洋子

 

そしてもう一人、鴨井羊子という人がいる。下着のデザイナーで、一から会社を設立し、女性下着の製造販売をした先駆者。

f:id:sassakonami:20200427231715j:plain 鴨井羊子

 

桑澤洋子は明治の終わり、鴨井羊子は大正の終わりに生まれた。

この二人は、とても似ている。

父は、働き盛りの時に病で急に亡くなり、母と兄弟の生活費を姉が稼いだ。

母は、凛として厳しく優しい人だったが、晩年は長患いする。

性格は実は二人とも、ひとみしり、でも言うべき時には百人を前にしても言う。

子どものころは野山をかけまわるが、お絵かきも好き。

デザインの仕事の前は記者だった。そして大酒のみ。

家庭に入って子供をもうけることはなかったが、生涯支えてくれた人がいた。

男性に気に入られる服ではなく、女性自身が身に着けて幸せを感じるような物を考案している。

仕事の遺志を受け継ぐ人がたくさんいて、今もそのまま運営されている。

それまでになかった物なのに、ずっと昔からあって未来にもたぶんあるだろうと思えるような普遍的なデザインと素材を追求した。

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おかげで、わたしたちは衣生活にはストレスがない。

 

参考文献 「洋裁文化と日本のファッション」井上雅人著

     「ふだん着のデザイナー」桑澤洋子著

     「わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい」鴨井羊子

     「木綿以前の事」柳田國男